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「雪割草シリーズ」
凌霄花

 〈07〉 変化

 ← 〈06〉 一時 → 〈08〉 『……助三郎?』
「暑いわね……」
 
 未だ京の山科に居るお銀は、かんかん照りの天を恨めしげに仰いだ。

「日焼けはお肌によくないのよ」
 
 それ故、彼女は夜働きの方が好きだった。
しかし今は文句など言ってはいられない。
 内蔵助の住まう家に、江戸から文が届いたのだった。
 
 お銀がお目当ての屋根裏に到着すると、内蔵助は文に目を通していた。
その隣には長男の主税の姿があった。

「……父上、堀部殿はいかなるお考えでございますか?」

「……単騎突入も辞さない考えだ」

「……それは無謀では?」

「……勿論。急いてはことを仕損じる。安兵衛を止めんといかんな」

 どうやら、江戸の仲間の中の過激派が、行動に出ようとしているらしい。
重要な情報をお銀は洩らさず聞いた。





「暑っついな……」

 弥七は江戸の町を歩いていた。さすがの彼も暑さにはかなわず、顔をしかめた。
 急いで日陰を見つけると、手拭いで汗を拭った。
 そして涼しい日陰をくれた親切な屋敷を見やった。
 
「ここの殿様は…… 確か、土屋様だったかな?」

 今から彼が行こうとしている場所は喧騒に包まれていたが、その『土屋様』の屋敷は、対照的に静寂に包まれていた。
 汗が少し引いた弥七は、すぐにその日の仕事へと向かった。





「申し訳ございませぬ!」

 弥七の眼に、一人のまだ若い侍が、頭を地面にこすりつけている姿が入った。
上司らしき男が彼に説教をしている。

「どうしてそれならそうと報告をせぬ! 勝手にあのような者達を入れおって!」

 彼が指差す方向には、大工の集団が忙しそうに作業していた。

「申し訳ございませぬ! 腕は確かと聞き、つい。人手も足りませんでしたので……」

「人数が足りんだと!? どういうことだ!?」

「は。上杉家でも改修工事が重なり、大工が足りないとの仰せで……」

 その二人の隣で、老人が口を開いた。

「……足りなかったのならば、仕方あるまい。もともとこちらが無理を言ってるのだからな」

「しかし、殿……」

 不満げな侍をよそに、大工の一団の中から男がやって来た。

「俺らの腕をなめてもらっちゃあ、困りますぜ! 殿さま」

 すぐさま侍がその大工を叱った。

「殿に口を聞くな。町人の分際で!」

 すぐさま大工は言い返した。

「これだから侍はイヤなんだよ! 刀差してりゃえらいと思いやがってよ!」

「なに!?」

 侍は刀に手を掛けた。
そんな姿を大工は鼻で笑った。

「おう、お前さんらの武器は刀だが、俺らの武器はこの大工道具だ」
 
 持っていた金槌を突き出した。

「だからどうした」

 対抗するように鼻で笑った侍に、大工は怒鳴り付けた。

「俺らはこれに命かけてんだ! これで飯食ってんだ! 舐めてもらっちゃ困るんだよ!」

 彼の背後から、大工仲間の男たちの野次が飛んできた。

「さすが棟梁! 日本一!」

「よ、平兵衛! 男前!」

 どんどん野次は大きくなり、味方の居ない侍が負けた。
怒りで顔を真っ赤にした彼は、捨て台詞を吐きその場を後にした。

「黙って仕事をせい!」

 現場には笑い声が響いていた。





 威勢の良い大工達と吉良の家来の喧嘩。
その光景を見た弥七は冷笑した。
 
「……江戸の大工を使わず、息子の所の大工を使うってか」
 
 弥七は見抜いた。
言い争っている大工以外は、すべて米沢からやってきた大工達。
 もしも、屋敷の間取りや設計図が外部の大工を通じて赤穂方に漏れたら、一大事だからだ。

「吉良様もなんだかんだいって、仇討に怯えてるんだな。面白れぇ」

 弥七はこの情報を、新鮮なうちに持っていくことに決めた。





 早苗は久しぶりに会う弥七の、ある行為に眼を丸くしていた。
彼が茶を飲み干したのだった。
 今まで一度たりとも、彼が彼女の前で茶を飲んだことは無かった。

「あ、飲んだ……」

 早苗のその呟きに弥七ははっとし、なぜか謝った。

「え? あ、すまねぇ……」

 妙な彼を早苗はクスリと笑った。

「いいえ。凄く嬉しいです。やっとわたしが淹れたお茶、飲んで貰えたんですから」

「あ、その、あまり茶を飲む習慣がないんでねぇ……」
 
 珍しく照れる弥七に早苗はまたも笑った。

「せっかくです。もう一杯どうぞ。今日は暑いから、喉乾きますよね」

 早苗は空になった湯呑に茶を淹れた。
急須から茶が出てくる様子を黙って見ていた弥七だったが、はっと気付き膝を進めた。

「おっといけねぇ。本題だ」

 早苗も急須を置き、仕事の顔になった。

「大きな動き、あったんですか?」

「へぃ。吉良様が本所(*1)に屋敷替えを」
 
 早苗は頭の中で地図を描いた。

「本所ですか? ちょっと江戸の中心から外れてますね」

 吉良の屋敷は江戸城とは至近距離。
それが今度の屋敷替えでかなり遠くになってしまった。

「柳沢様が、吉良様を厄介払いしたんです」

 弥七はそう断言した。

「……それって、お城の近くで仇討されると、迷惑だからですか?」

「いや、あの御方は仇討を信じちゃいねぇ。ただ吉良様の居た土地が欲しかっただでさぁ」

 策士の柳沢。なにか思うところがあってそうしたのだろうと、早苗は弥七の話に納得した。

「そうですか…… それで、吉良さまはもう本所でお住まいですか?」

「いいえ。貰った場所に屋敷建て直してましたぜ。大騒ぎしながら」

 ニヤリと弥七は笑った。
先程の大工と侍の喧嘩を思い出していたのだった。

「吉良さまは引っ越しか…… 大石さまは大石さまだし……」

「そう言えば、お銀からの連絡は?」

 早苗は彼につい先ほど到着したお銀の文を見せた。

「江戸の仲間から、再三仇討を促す書状が来ているそうです。でも、大石さまは動かないそうで」

「時期尚早ということだな……」

「でも、しきりに御家再興の嘆願書を送っているようですね?」

「それは確かだ。柳沢様の屋敷で何回か見た」

 早苗は少し疑問に思っていた事を確かめた。

「大石さまの本懐は、討ち入りですよね?」

 弥七は文を畳むと即答した。

「へぃ。赤穂で見た通り。なんで、御家再興の嘆願書は目くらまし。仇討を信じてない柳沢様にはちょうどいい」

 平和的解決は出来ないのかと、早苗はふと思った。
 もしも、赤穂浅野家が再興すれば仇討ちも無くなるのではないかと。

「……御家再興って、やっぱり無理ですよね?」

 すぐに弥七から答えが帰って来た。

「無理でしょうね。赤穂は柳沢様がつぶしたようなもんだ」

 その答えを、早苗は分かってはいた。しかし、思わず溜息を洩らしていた。




 茶を三杯飲み干した時、弥七はあることに気付いた。

「ところで、今日助さんは?」

 途端に早苗の表情が曇ったのに彼は気付いた。

「長い間留守なのかい?」

「水戸に帰ってるんです。忙しいのか、戻るのが遅くて……」

 既にその時、助三郎が江戸を発ってから半月を越し、一月になろうとしていた。
すぐに戻って来ると言って出て行った夫の帰宅を、心待ちにする早苗だった。

「そうですかい。寂しいですね……」

「はい……」





 それから数日後の夜遅く、早苗はお夏の声で眼を覚ました。
彼女はなぜかクロを抱っこしていた。

「……どうかした? クロに何かあった?」

「クロがなにか言いたげなので、早苗さまならお解りになるかと思いまして……」

「何かしら」

 早苗はクロをお夏から預かると、何事か聞いた。
すると彼はこう言った。

『虎轍《こてつ》にお水とご飯あげて!』

「へ? 虎徹?」

『水戸から助さんを乗せて一生懸命走ったの。お腹空いてのど乾いてるって』

 夜中に騎馬での帰宅。助三郎は馬を無理に跳ばしたに違いない。
早苗は助三郎の愛馬、虎徹の労を労うことにした。
 傍に控えていたお夏に、仕事を命じた。

「お夏ちゃん、庭に虎徹が居るだろうから、水あげて。飼葉は無いから、野菜でもあげてくれる? なるべく良いやつを」

「はい。分かりました」

 お夏が仕事へ向かうと、早苗は夫の行方をクロに聞いた。

「助三郎さまは? どこ?」

 するとクロのピンとたった耳は少し萎れ、尻尾は力を失った。

『ここまで来た。でも、すぐに奥の部屋に行っちゃった。クロ撫でてくれなかった……』

 クンクンと悲しそうな声を上げた犬の頭を、早苗は代わりに撫でてやった。

「泣かないの。助三郎さま、きっと疲れてるのよ」

 早苗は少し元気を取り戻したクロに礼を言うと彼を寝かしつけ、早速夫を探した。
 そして、奥の書斎として使っている部屋で彼を見つけた。

 布団も敷かず、旅装も解かず、壁にもたれて刀を抱いて眠っていた。
 
 早苗は、久しぶりに見る夫の姿にほっとし、寝顔をじっと見つめた。
 
 しかし、すぐに彼の身形が酷く悪い事に気付いた。
 着物はところどころ破れ、ほつれ、道中で付いたと見える埃やどろですっかり汚れていた。
顔の無精ひげも目立ち、更に埃と汗で汚れていた。
 早苗はそんな夫の旅の疲れを、少しでも取ってあげようと思い立ち、盥に水を張り手拭いを浸した。
それを硬く絞り、夫の顔に着く泥を拭うことにした。

 助三郎の頬に、手拭いが付いたか付かないかの一瞬だった。
彼は突然眼を開け、凄まじい速さで、抱いていた刀を抜き払っていた。


 ガチッという鈍い音が部屋に響いた。
と同時に、男の怒声が飛んだ。

「助三郎! 落ち着け! 俺だ!」
 
 早苗は助三郎の白刃を、傍に転がっていた小太刀の鞘で受け止めていた。
 もしも、刀に手を伸ばして防御する動作が遅れていたら、変身せずに女のままであったら、彼女の命は無かったに違いない。

 彼女の怒声で助三郎は我に返った。

「格さん!?」

 急いで刀を鞘に戻すと、早苗から大分距離を置いて土下座した。

「すまん!」

 助三郎は顔を上げず、謝り続けた。 

「大丈夫だから、顔を上げてくれ……」

 しかし、助三郎は顔を上げなかった。

「お前の命、危うく奪う所だった……」

 泣きそうな声でそう呟きながら、彼は震えていた。

 早苗も夫のとった恐ろしい行動に心底動揺していた。
しかし、平静を装い笑顔を作り、彼を安心させようとした。
 振るえ続ける夫の手に、そっと手を重ねた。

 しかし、瞬時に助三郎は手を引っ込めた。

「……大丈夫か?」

 普段とは様子が大分違う夫が気に掛かった。
帰ってきた返事はなんとも弱弱しい声だった。

「……大丈夫だ」

 そうは言っても、大丈夫そうでない彼を早苗は気遣った。

「顔色が悪い……」

 顔を覗き込んだが、助三郎はなぜか早苗と眼を合わせようとしなかった。
その代わり、低く言った。

「大丈夫だ…… 寝れば治る……」

 そして、早苗に背を向けると、ゴロンと畳に横になった。
刀を抱きよせ、抱いたまま。
 勿論、先程のようにとっさに抜いてしまわないよう、刀の柄を足の方に向けてはいた。

 早苗はそんな夫の姿に驚いた。

「ここで寝る気か? 布団も敷かずに?」

 助三郎は寝ながら言った。

「……お前と同じ部屋で寝て、またおかしなことになったら敵わん。布団は面倒だ。別にいい」

 あまり調子が良さそうでない彼に、これ以上声をかけてはいけないと感じた早苗は、大人しく下がることにした。

「お休み。助三郎……」

 返事は帰ってこなかった。

 まだ夜が深かった。
早苗は寝所に戻ると、女に戻り、布団へ潜り込んだ。
そして再び眠りに落ちた。





 朝、早苗は少し起床時間が遅くなった。
急いで身形を整えると、書斎の助三郎を見舞意に向かった。

「おはよう! 助三……」

 部屋の襖は開け放たれていた。
しかし、中には誰も居なかった。
 早苗はそれから家の中の心当たりを探したが、彼は何処にもいなかった。

「お夏ちゃん、助三郎さま見なかった?」

 台所で食事の支度をしているお夏に声を掛けた。

「そういえば、朝とても早くなにも言わずに出て行かれました…… お伝えせず、申し訳ありません」

 早苗はがっかりしたが、彼女を責めはしなかった。

「謝らなくていいわ…… ありがとう」





 早苗はその日出仕日だった。手際良くその日の仕事を終えると、急いで帰宅した。
出迎えたお夏に、すぐさま聞いた。

「助三郎帰って来たか?」

「いいえ。まだです」

 その言葉に早苗は安堵した。

「よし。帰って来る前に夕餉作ろう。あ、お夏は休んでていいぞ」
 
 助三郎の好きな物をいっぱい作って、一緒に食事をしたかった。
 しかし……

 彼は待てど暮らせど、帰ってこなかった。
早苗は箸をつけていない料理を前に、船を漕ぎ始めた。
 そんな彼女に、お夏が声を掛けた。

「……早苗さま、もうお休みになっては?」

「……ううん。待つわ。せっかく作ったんだもん」

 しかし、結局早苗は寝落ちしてしまった。
彼女がはっと気付いた時、既に空が白け、部屋に日の光が差し込んでいた。

「寝ちゃった……」

 盛大に落ち込む早苗は、はらりと落ちた物に気付いた。
 それは男物の羽織。助三郎の紋が染め抜いてあった。

「……助三郎さま」

 夫が帰って来た事に気付くと同時に、寝てしまって出迎えが出来なかった事を詫びようと、早苗は助三郎を探した。
 しかし、またしても彼は居なかった。

「……なんで会えないの?」
 
 しかし、くよくよしてばかりも居られない。
夫に食べてもらえなかった夕餉は無駄にせず、弁当箱に流し込むと職場へと向かった。

 その夜、早苗は昨晩の無念を晴らすため意気込んでいた。

「今日は絶対寝ないわ!」

 何処から出してきたのか、鉢巻をして、襷がけまでしていた。
少しおおげさな姿にお夏は少し笑ったが、彼女は早苗の味方だった。

「わたしも早苗さまがもし寝てしまわれても良いよう、起きています」

「ありがとう。心強いわ。よし! 早く帰ってこい! 助三郎さま!」

 しかし、そんな早苗の願いもむなしく、助三郎の帰宅はその日も遅かった。
早苗はどうにか出迎える事が出来たが。

 出迎えるなり、助三郎は驚いた様子で早苗を見た。

「……なんだ、起きてたのか?」

 彼に早苗はにこっと笑い掛けた。

「うん。起きてた」

 そして、いつものように夫から刀を受け取ろうと手を差し出した。
 しかし、彼は渡さなかった。

「……起きて待ってなくていいから、寝てろ」

 冷たくそう言い放ち、早苗の横をすり抜けて行った。
早苗の眼は一瞬で冷めた。
 そして、困惑した。

「でも、でも……」

 奥へと向かう夫を追いかけると、彼は彼女の顔も見ず無感情に言った。

「とにかく、寝るんだ。身体に悪い」

 そして、書斎として使っている部屋の障子を開けた。
もちろん、そこは夫婦の寝所ではない。

「あ、待って……」

 夫の後に続こうとした矢先に、鼻先で障子を閉められた。
早苗は悲しくなったが、ぐっとこらえ夫に声を掛けた。

「……お風呂は?」

「いい」

「……ご飯は?」

「要らん」

 なんとも冷たい言葉に、早苗は言葉が出なかった。
期待した彼の笑顔はどこにもなかった。
 諦めて早苗は居間へと戻った。
そこではお夏が助三郎の食事の支度をしていた。

「お夏ちゃん、ごめんね、ご飯要らないって……」

 お夏は手を止めた。
早苗は俯き加減で言った。

「明日のお弁当に持っていくね……」

 深い溜息をついた彼女を、お夏は見逃さなかった。

「お疲れの御様子。そろそろお休みになっては?」

 しかし、早苗はそこから動こうとしなかった。
様子がおかしい主に気付いたお夏は、彼女の傍に座り話を聞いた。

「……助三郎さま、わたしがあの男に襲われそうになった事、知ってるのかな」

 早苗が心配するのは、あの夜の出来事だった。
大伯父の配下の下男に、手籠めにされそうになった事。
 しかし、早苗は無傷だった。なにも無かった。

「大丈夫です。あの方、あの夜になにも見てない、聞いて無いとおっしゃってたんでしょう?」

「でも……」

 あの夜この役宅に居たのは、お夏と入れ替わりで水戸に帰った佐々木家の下女。
彼女はなにも見てない、なにも聞いて無いと言っていた。
 しかし、早苗はそれを信じきれなかった。

「もしかしたら、嘘かも…… どうしよう。全部知ってて、助三郎さまに話してたら……」

 佐々木家の下男下女は皆早苗に優しかった。
しかし、一番腹を割って付き合えるのは、実家から付いて来たお夏だけ。
 お夏も早苗を支えようと日々頑張っていた。
この時も、なんとか早苗を落ち着かせようと、彼女に声をかけ続けた。

「落ち着いてください。大丈夫です。なにも心配はありません」

 



 数日後、早苗は非番だった。
相変わらず助三郎は早苗に顔も見せず、すれ違いが続いていた。
 それ故、早苗の鬱憤は溜まって行く一方。ちょっと気を抜くと、嫌な事ばかり考えてしまうようになっていた。
 しかし、それではいけないと思った彼女は、気分転換の為に部屋の模様替えをし始めた。
一通り、満足のいく配置になった後、早苗は掃除にとりかかった。
 普段からちょくちょく掃除しているので、そこまで汚れは酷くない。
しかし、彼女がどうしてもしなければいけない部屋が一つあった。
 しばらく手を出せなかった、書斎。
 
 助三郎が寝所として使うようになってから、早苗は一度も足を踏み入れてはおらず、掃除もしていなかった。
 彼はは恐らく今晩も夜遅くまで帰ってこない。
早苗はまたも鬱々としそうになったが、頭を切り替えた。

「よし! やるわよ!」

 勢い良く障子を開け放つなり、目の前に広がる景色に、一瞬言葉を失った。

 書斎は酷く散らかっていた。
書き損じた紙を丸めた物が床に散らばり、何処から運んで来たのか布団は敷きっぱなし。
 汗をかいて汚れたであろう寝間着も、自分で洗濯したと見える下帯や手拭いも、畳まずに部屋の隅に丸めてあった。
 ここまでだらしのない事をした夫を見た事が無い早苗はこの光景に驚き、しばらく立ち尽くした。
まさかこんなことになっているとは思いもしなかった。

「とにかく、掃除しなとね……」

 万年床と化しつつある布団を部屋から運び出し、洗濯が必要な物とそうでないものをよりわけた。
 ひととおり部屋の床が綺麗になると、今度は机の上の片付けに着手した。
 質が悪い紙に殴り書きしたものや、清書したと見える紙。様々な物がぐちゃぐちゃになっていた。
 早苗はそれを一枚一枚選りわけ、纏めて行った。

「こんな良い紙にこれだけの文字? 勿体無……」

 早苗の手がピタリと止まった。
上質な紙に書かれている文章を眼にした途端、彼女の血の気は一気に引いた。

「なに? これ……」

 震えだした早苗の手の中の紙には、こう書かれていた。

『あの婚姻の届け出は紛い物。それ故、あの女子は我が妻に非ず。早々に離縁を申しつくる物成』

「これって……」

 最悪な答えが頭をよぎった。
しかし、それを口に出す前に、早苗は人の気配を感じとった。
 恐る恐る、その気配を確かめようと振り向いた。
それは、助三郎だった。
 こんな時間に彼が戻ってくるとは思いもしなかった早苗は驚き、声を上げた。

「お、お帰りなさいませ……」

 助三郎は、訝しげな眼で早苗を見た。

「……ここで何やってる」

 早苗は手に持っていた紙を背後に隠した。

「掃除を……」

 助三郎はジロリと部屋を見渡した。
部屋はもとより、机の上の紙がほぼすべて纏められていることと、早苗が背中に一枚紙を隠し持っていることに気付いた。
 その途端、彼は早苗から紙を奪い取り、ぐちゃぐちゃに丸めると、低く言った。

「勝手に触るな……」

「ごめんなさい……」

 気まずい早苗は後ずさりした。
追い打ちを掛けるように、助三郎は彼女を追い出そうとした。

「早く行け」

「でも、まだ片付けが……」

 そう言って彼女が掃除道具に手を伸ばした瞬間、彼は怒声を上げた。

「掃除なんかいい! 良いから早く出ていけ!」
 
 早苗は彼の声に驚き、身一つでその場を走り去った。





 「くそっ!」

 一人残った助三郎は、その場に崩れ落ちた。
畳に気だるげに転がると、しばらく瞑想していた。
 が、突然、キッと眼を見開き天井を睨みつけた。

「……これも、すべて計画通りなのか?」

 忌々しげに吐き捨てた。
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(*1)本所
現在の東京都墨田区。両国国技館の近く。
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